ブログ<原典からの出発>(<心のテープ>改め since2009.12.16)

天理市から発信する 教内外の情報満載のブログです。 10年前から開設しているHP<天理と刻限>の姉妹版として、 原典と現実をむすぶ「理」の情報を提供します。

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「ろくぢ」は言葉だけの「虚像」になるのか?

 1/30付の「天理時報」が手もとに届いた。その一面トップの見出しに、春季大祭の神殿講話について大きな見出しが躍っていた。
” 一れつきょうだいの絆 ” 広く伝えようー真柱様ー「世界ろくぢに」との思召にお応えする誓い新たに
 じつは大祭の前日25日に私は、このブログから「ろくぢこそ神意の核心」と題して発信したのだが、もちろん真柱様の講話を先に知っているはずはない。「ろくぢに踏み均す」という神意に「お応えする誓い新たに」と神殿講話されたとすれば、恐れ多いことながらシンクロ現象というべきなのか。そんな思いを浮かべながら記事を拝読した。

 時報を読んでいない方のために一部を引用すれば、神殿講話の要旨は、教内を「ろくぢ」にするという意味ではなく、「親神様が仰せになる『ろくぢ』とは、単に種々の不平等や不公平がない世の中というだけではない」「高山谷底を均すこともさることながら、その前提ともいうべき、人と人との心のつながりが弱まっている現状は、もっと問題かもしれない」と指摘されている。
 その要旨は1面のトップ記事を占めているが、さらに2/6付の天理時報にも重ねてほぼ全文が掲載されている。これほど詳しく報道されている真柱様の神殿講話を、聞き流し読み流しては誠に申しわけない。

 たしかに、世の中に不平等・不公平や高山・谷底がなくなっても、それだけで「心のつながり」のある世の中が実現するわけではない。しかも親神様は、血縁の家族だけの狭い「心のつながり」を望まれているのではない。「一れつきょうだい」の「心のつながり」は、高低のない「同じ魂」の自覚がなければ生まれないだろう。
 もともと同じ親から産まれた者を「きょうだい」(兄弟姉妹)と呼ぶ。そして戦後に変革された法律では、兄弟姉妹は皆「ろくぢ」(平等)の人権を認められている。

 一方、天理教内の「実像」(実態)はどうだろうか。所属する系統や教会が違えば、いわゆる「理の親」が違うことになり、親が違えば「きょうだい」ではない。事実、同じ地域に住んでいても、所属の違うようぼく同士に「きょうだい」としての「心のつながり」はあるだろうか。心のつながりどころか1キロ以内に住んでいるようぼくの住所や姓名さえお互いに知らないのではないか。天理時報の手配りだけで心のつながりが生まれるのだろうか。
 ただし、おぢばでの修養科は、一期講師を含めて系統や所属の違いに関係なく、一れつになって集団生活を送る体制になっている。しかし3ヶ月で修了した後は、国々所々で系統の違う教会に所属することになり、元の親を同じくする「きょうだい」のつながりは断絶してしまう結果となる場合が多い。

 ここで、改めて明治20年1月の時点に回帰して「ろくぢ」という言葉の意味を確かめてみよう。当時、まだ天理教は設立されていなかったから、教祖のお言葉はすべて「世界一れつ」に対する神意を表されたものであった。そして事実、百年前に比べると、神意の通りに、日本を始めとして世界は「ろくぢ」に踏み均される方向へ進んできた。
 前例の法律に見る通り、あれほど教祖ひながたの道を禁圧した法律も、戦後はあらゆる面で「ろくぢ」(自由平等)に変革された。にもかかわらず、家族の「心のつながり」が失われているとすれば、それは「元の理」を知らずに「心のほこり」を積み重ねた結果に違いない。

 一方、過去の「ろくぢ」でない社会の制約の中で設立された天理教は、「応法」の道といわれてきたように、過去の時代に適応するための制度や慣習が混じり合って形成された。
 戦後になって、「法律」は、一切の差別を認めず「ろくぢ」に変革されたが、教内の組織制度は戦前のまま現在に至っているとすれば、今では「応法」の道でさえもない、まして「ろくぢ」を望まれる神一条の道とは程遠い「実像」になっていることを認めざるを得ないだろう。
 とすれば、教内が高低のない「同じ魂」の自覚のもとに、ようぼく同士が「きょうだいの中のきょうだい」(おさしづ)の「心のつながり」を深め、世界一れつの先頭に立つ「ひながた」(モデル)として、「世界ろくぢに」との思召にお応えする誓いを新たにしなければ、「ろくぢ」という言葉は「虚像」になってしまうだろう。

 ここで、いくつかの「おさしづ」を拝読しよう。
「十分道と言えば、世界から付けに来る。世界からろくぢという道を付き来る。濁った/\道でどうもならん」(明治21.3.9)
「一つ分からにゃどうもならん。二つ分からにゃすっきり、三つ分からねば暗闇という」(明治23.6.20)
「神一条の道は皆兄弟。いずこの理を以て親族、親族は心の結び合い、他人というはほのかな理、神一条の道は神やしき、鏡やしきという。・・・神一条の道には親族は無い」(明治23.6.21)
「さあ/\兄弟という理であろう。中にも兄弟。一列兄弟は言うまで(もない)。こうして道という、遠く所国所、遠く処厭わず寄り合うた理は、生まれの兄弟も同じ事」(明治35.7.20)

 このたび復刻版の電子図書として発行した『天理教の虚像と実像』を「試し読み」すれば、教祖百年祭の旬に前真柱様が、かんろだいを囲む東西南北の礼拝場に参集した1万7千人の全教会長を前にして、「陽気ぐらし」という教語を繰り返して2時間にわたる講習を実施された日がよみがえってくる。
 この本のテーマは、教内が先に立って「陽気ぐらし」のモデルを世の中に示さなければ、やはり真柱様の言葉を聞き流したまま「虚像」に過ぎない結果になることを、歴史の「実像」と対比して明示しようとしている。

「陽気ぐらし」と「ろくぢ」と、言葉は違うけれども、相変わらず言葉だけの「虚像」が教内に氾濫している。天理教の歴史と現実の中で、「虚像」と「実像」を見分けることから再出発する以外に道はないと私は信じている。すなわち、建前だけの「虚像」を切り捨てて「実像」の中に隠されている真実を掘り起こす心定めが何よりも必要ではないかと思うからだ。その意味で、電子ブック『虚像と実像』の購読を切望して止まない。
 最後に結論すれば、明治20年1月26日の刻限に回帰して再出発しなければ、「虚像」が「実像」に成ることはあり得ないだろう。

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※『天理教の虚像と実像』(電子ブック)については下記のページからリンクしていますので、アクセスして下さい。
「みさと原典研究会の趣意」
 
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今年(2016)8月4日に朝日新聞の取材を受けて記事と共に掲載された近影です。記事については8/15更新のブログを参照してください。今年84歳にしては若く見えるでしょう?

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