ブログ<原典からの出発>(<心のテープ>改め since2009.12.16)

天理市から発信する 教内外の情報満載のブログです。 10年前から開設しているHP<天理と刻限>の姉妹版として、 原典と現実をむすぶ「理」の情報を提供します。

Entries

龍馬と天理教

 NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が人気を呼んでいる。先週は「薩長連合」が放映されていた。私はとくに龍馬の「脱藩」に関心がある。その理由は、天理教の系統教会からの「脱教」と関連づけて連想するからだ。
 龍馬は文久2年(1862年)26歳のとき脱藩した。幕末の頃になっても、無断で脱藩する行為は、家名は断絶、本人は罪人となり、捕まれば死刑になる場合もあった。脱藩した龍馬は九州を放浪した後、江戸へ入り、年末には勝海舟と初対面し、広く世界に目を開かれることになる。
 尊皇攘夷の志に突き動かされた竜馬が脱藩した年、中山みき教祖は65歳。その2年後の元治元年は、つとめ場所のふしんが始まった年に当たる。
 
 笑われるのを覚悟の上で、ここで20代の自分史を思い返してみたい。今まで話したことも書いたこともないのだが、青春の模索のすえ、止むに止まれず実行したことが私にもある。その決意は呆れるほど単純であった、と後年になって自認せざるを得なかった。
 じつは、私は22歳と25歳の時、二度家出した。家出といっても、家は教会だから教出というべきか。一度目は大教会の青年を1年勤めたあと、友人を頼って東京へ、教会と縁を切って働くつもりであった。親に心配かけるつもりはなかったから、上京した直後に居場所を連絡した。
 
 しかし昭和30年当時といえば、経済成長政策が軌道に乗る以前の厳しい不況時代で、職安で順番待ちのカードを貰って並んでも仕事にありつけなかった。仕方なく八王子へ都落ちして、市内の部内教会に置いて頂くことになった。高齢婦人の会長が一人で守っている教会であった。家族は東京へ出て事業をされていた(その後、長男一家が教会へ帰ってきて会長を継ぎ、今は親の後をお孫さんが継いでいる)その教会に置いてもらう条件は、世話は一切しないから食事も自分でつくること。狭い教会で高齢の会長と青年が別々に煮炊きして生活するのは滑稽だが、会長としては若者を甘やかしてはいけないという思いがあったに違いない。
 
 もともと布教しないのなら教会を出て働くしかないと、二者択一で自分を上京に追い込んだのだから、働くにも職がないからといってスゴスゴと帰れない。それなら布教する以外にない、という単純で不純(?)な動機であった。
 母から月々送金してくれる3千円の中から千円を部屋代として教会に御供し、残りの2千円で生活費一切をまかなった。それ以上甘えてはいけないとの自戒心から、親心で米や缶詰などの慰問品が届くと、そのまま送り返したこともある。それから約10ヵ月、布教の真似事をした体験については前に書いたことがあるので省略したい。
 
 おぢばは教祖70年祭前で、初のやかたふしんで湧き立っていた。そのひのきしんに参加するという理由で私は天理市の詰所に帰った。その翌年から青年会本部のあらきとうりょう編集部の一員として勤めたが、年末に風邪をこじらせて肺浸潤と診断され、半年の静養を止むなくされた。その間、私は心と体の関係を知るために読書に集中し、深まる疑問を解明するために大学に編入学して心理学を専攻しようと決心した。病気を忘れて目標に集中したおかげか、抗生物質の薬が効いたのか、若さのご守護があったのか、肺の症状は意外に早く治癒した。
 
 翌年25歳になって、再び親に無断で京都へ出奔した。押入なしの2畳ひと間の部屋を3千円で借り、まず生活費を稼ぐためのバイトを探した。幸い京都は染色工業が盛んだから、洋服生地の捺染用型枠をつくる工場で図案をフィルムにトレスする職人仕事に就いた。もともと絵を描くのは好きだったせいか、1ヵ月目から最低限の収入になった。今でも覚えているが、昭和32年当時、素うどん1杯10円であった。
 それから次第に図案トレスの腕が上がり、京都へ出て2年後には20枚もの型枠を重ねて生地を染色するほどの高級生地の図案トレスを引き受けるまでになった。デパートの服地売場で自分が図柄をトレスした生地を見かけたこともあった。その後、自室で下請け仕事の図案トレスをしながら、大学へ編入学して心理学を勉強する目的を実行した。
 
 もともと私の進学目的は心理学の限界を確かめるためであったから、卒業後の就職活動は何もしていなかった。30歳にもなってノンキな話だが、かつての恩師が失職した私にかけて下さった温情を受けておぢばへ帰ってくる結果となった。しかし、7年後に厳しい身上の知らせを頂き、せっかくの温情を無視して職を辞する決心をした。
 それから3年後に41歳で、鹿児島にあった無人の事情教会を天理市内の現在地に移転して後継することになるが、その経緯は省略させて頂きたい。とにかく、おぢばから外へ出ても、結局は引き戻されて根が生えたように定住する結果になった。それ以前を含めて、おさしづ研究資料の作成をはじめ、私の文書伝道は現在までに40年の年月を積み重ねてきた。一つ言えることは、天理市を離れ世間の荒波に揉まれて生活した経験から、客観的に天理教を観る目ができたことは確かであった。
 
 龍馬の脱藩から脱線したが、初めに話を戻したい。龍馬が脱藩した目的は、土佐藩を改革するためではなかった。そんなちっぽけな志を抱いていたのではない。「いま一度日本を洗濯いたし申し候」と龍馬は手紙に書いている。
 幕末時代と現代の違い、龍馬の霊が今の天理教を観察すれば、どのような感慨を抱くだろうか、また教祖は龍馬を初めとする幕末の志士をどのように見ておられたのか
 龍馬が暗殺されたのは明治に改元される前年の慶応3年11月15日で、その年の正月から8月まで教祖は「みかぐらうた」を創作され、2年後の明治2年から「おふでさき」の執筆を始められている。
 
 先に結論を申せば、幕末から明治維新を経て、西欧化と富国強兵を国家目標とした政治権力が、昭和に入って15年にわたる戦争を拡大したあげくに敗戦を迎えるまで、紆余変転した人間の歴史と比べるとき、教祖を通して説き聞かされた親神の教えは微動だにすることなく、今も原典には絶対不変の真実が担保されている。
 とはいえ、親神様・教祖が満足されているとは言えない天理教の歴史と現実があることは、今さら申すまでもない。「上・高山」に未だ神意が通じていないのはもちろん、世の中に「よろづいさいのもと」が全く伝わっていないからだ。
 逆に唯物医学が一般常識となり、いのちは内臓や細胞という部品の集まりと見なされている。材料や道具さえ揃えれば、設計技師や大工棟梁(統合的な意思と能力をもつ存在=守護の理)がなくても勝手に家が建つかのような錯覚に陥っている。
 龍馬が志した幕藩体制から明治維新への改革と対比して、次に天理教団の本質を追求してみたい。(つづく)
 
関連記事
スポンサーサイト

Comment

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

左サイドMenu

プロフィール

植田義弘

Author:植田義弘
今年(2016)8月4日に朝日新聞の取材を受けて記事と共に掲載された近影です。記事については8/15更新のブログを参照してください。今年84歳にしては若く見えるでしょう?

『天の言葉』ダウンロード無料

『原典を元とする理の研究』から教義の基本となる序章と第一章を抜粋してまとめたpdfファイル(37頁分)を無料提供します。

ダウンロードを希望される方は下記アドレス宛にメールくだされば、折返し添付ファイルを返信します。genten505@gmail.com

ブロマガ<原典からの出発>

紹介文:このたび特定の読者のために電子書籍およびPDFファイル等を提供する企画を進めています。いずれも原典を元とする非公開の資料ばかりです。
今後の文書活動資金に役立てるため有料としますが、ご理解ご協力の程よろしくお願いします。

ブロマガ記事一覧

購入したコンテンツは、期限なしに閲覧いただけます。

(購読手続きは FC2 に無料登録して購読ご希望の資料ごとにメールアドレスとパスワードを記入するだけで個人情報は不要です)

FC2カウンター

最新更新した記事

アルバム