FC2ブログ

ブログ<原典からの出発>(<心のテープ>改め since2009.12.16)

天理市から発信する 教内外の情報満載のブログです。 10年前から開設しているHP<天理と刻限>の姉妹版として、 原典と現実をむすぶ「理」の情報を提供します。

Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「つくし・はこび」の錯覚

メルマガ<心のテープ>アーカイブ(81号)
「つくし・はこび」の錯覚
配信日:2009/2/19

 教語(教理を表す語)の多くは「おさしづ」に由来している。例えば「つくし・はこび」について『おさしづに啓示された理の研究:第五部』には50節のおさしづ原文を収録しているが、その一つ「南海分教会事情願」の一節には、次のような諭しを拝読できる。
「尽しただけの理、運んだだけの理、十分蒔いたる種であるから、皆蒔いた種は、これから十分心寄り合うて、一つ大層なる理は、十分受け取りてある。・・・道のため、これ運び合い尽し合い、互い/\である。これから道作り上げて運ぶなら、見えて来る」(補遺30.3.18)

 当時、おさしづを伺うことができるのは、教長(現・柱)、本部側近とその家族、教会長および役員であって、一般ようぼく信者が伺いを立てる機会がないのは当然であった。従って、おさしづに諭されているのは、伺っている人自身が道の上に「つくし・はこび」することの大切さであり、ようぼくや信者に「つくし・はこび」するように説教するためではない。
 しかも、上に挙げたおさしづに「運び合い尽し合い、互い/\である」とあるように、決して一方的な通り方を説き聞かされているのでもない。
 それが何時の間にか、一方的に本部や教会など導く立場の者が導かれる人々に向かって説き聞かす教理に転嫁されるようになったのだ。これほど都合のいい錯覚はない。
 
 一事が万事であって、他の教理についても、自分のためではなく相手に説くためにあると錯覚している場合が多い。
 例えば、一れつ兄弟姉妹の教えを教外へ向けて叫びながら、教内において、系統が違ってもようぼく同士が兄弟姉妹の意識に徹しているかどうか、自らの胸に問うているだろうか。
 陽気ぐらしの天理教と言いながら、日々上下の人間関係のストレスで悩んだり、遠慮気兼ねや追従でごまかしたりしていないだろうか。
 おさしづの一節にも「白いものと言うて売っても、中開けて黒かったらどうするぞ」(32.7.23)と諭されている。
 
 もう一つの錯覚は、にをいがけ・おたすけすれば、直ぐにでも相手が「つくし・はこび」してくれるように思い込んでいることだ。少なくとも「にをいがけ・おたすけ」に経費は掛からないし、自分から「つくし・はこび」する必要はないと錯覚しているところがある。
 とくに上に立つ者は、末端の教会がもっとおたすけに熱心になりさえすれば、当然お供えも増える筈ではないか、と思い込んでいる。とすれば、これほど現実に反する錯覚はない。
「にをいがけ・おたすけ」は「ひのきしん」と同様に報酬を求めることは間違っているし、それこそ自分が相手に「つくし・はこび」を実行することである。そのために時間や経費が掛かることは当然であろう。それ故に「にをいがけ・おたすけ」すればするほど、自分が未信者に「つくし・はこび」する覚悟が肝要となる。
 
 今になって反省の念に駆られることがある。じつは、うちは有名無実の事情教会として再出発したので、親先祖から二代目三代目の信仰を受け継いでいるようぼくは殆どいなかった。
 そうした実情にあって、修養科生が次々に10人前後も修了した時期があった。最初に志願した難病の娘さんがご守護頂いたことから、母親が喜んで志願し、その姿を目の当たりにした知人や紹介者が、北大阪や神戸の方面から続いて修養科を志願したからであった。
 しかし当時の私は、入信したばかりのようぼくたちに自分が「つくし・はこび」する気持ちが足りなかった。というより、上級の教会へ「つくし・はこび」するのが精いっぱいだったので、新しいようぼくの家を訪ねたり家族と話したりする時間も経費もなかったのが実情であった。
 だからといって、修養科を出たばかりの相手に「つくし・はこび」を望んでも通じるはずはなく、殆どのようぼくが道を離れてしまう結果になった。
 
 今にして「おさしづ」で諭されている神意が解けたような思いがしている。つまり、布教や修理・丹精を目的として行動するには時間も経費も掛かるのだ。教会も何もなかった道の初期、先人たちは自らの仕事や時間を布教のために「つくし・はこび」していたのであり、人に「つくし・はこび」を説教していたのではなかった。その意味で、教会には時間の余裕とともに自由に支出できる布教費がなければ動きがとれないのだ。
 昨年の秋、「天理教の歴史と現実」と題する小論は、そうした私自身の反省を土台としてまとめたのであった。
 
関連記事
スポンサーサイト

Comment

Comment_form

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

左サイドMenu

プロフィール

植田義弘

Author:植田義弘
今年(2016)8月4日に朝日新聞の取材を受けて記事と共に掲載された近影です。記事については8/15更新のブログを参照してください。今年84歳にしては若く見えるでしょう?

『天の言葉』ダウンロード無料

『原典を元とする理の研究』から教義の基本となる序章と第一章を抜粋してまとめたpdfファイル(37頁分)を無料提供します。

ダウンロードを希望される方は下記アドレス宛にメールくだされば、折返し添付ファイルを返信します。genten505@gmail.com

ブロマガ<原典からの出発>

紹介文:このたび特定の読者のために電子書籍およびPDFファイル等を提供する企画を進めています。いずれも原典を元とする非公開の資料ばかりです。
今後の文書活動資金に役立てるため有料としますが、ご理解ご協力の程よろしくお願いします。

ブロマガ記事一覧

購入したコンテンツは、期限なしに閲覧いただけます。

(購読手続きは FC2 に無料登録して購読ご希望の資料ごとにメールアドレスとパスワードを記入するだけで個人情報は不要です)

FC2カウンター

最新更新した記事

アルバム

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。