ブログ<原典からの出発>(<心のテープ>改め since2009.12.16)

天理市から発信する 教内外の情報満載のブログです。 10年前から開設しているHP<天理と刻限>の姉妹版として、 原典と現実をむすぶ「理」の情報を提供します。

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教会「名称の理は末代」の誤解

 上記のごとく固定観念によって教会名称は絶対に取り消すことができないかのごとく受け取られている。とすれば、前回で引用したように、昭和15年に232ヵ所しかなかった分教会を1年後には1万1千ヵ所以上に増やしたのだから、「理」も自動的に大量に発生したことになるだろう。以下、前回も引用した小著『教祖ひながたと現代』から、このテーマに関連する部分を引用したい。それ以上に適切な説明はできないと思うからだ。

 たしかに誠真実の心が変わらない限り、この道は「末代の理」として続く、と諭されている「おさしづ」は、個々の伺いに対して啓示されていることは事実である。例えば、
◎「誠より残る理はない。残る理は将来末代の理という。種無くして道は付かん」
 「さあ所という、前々所に一つ名称始め掛けた事情、年限経てど、これは末代の理」(M32.2.18)
◎「一代切りと言えば何したん(やろう)と思うは理なれど、この道末代の理。末代所に理のある治まりという。・・・この理楽しんで運ぶなら、未だ/\案じる事要らん。道楽しんで運ぶなら、末代。末代の名が楽しみやで」(補遺M32.2.18)
◎「道というたら末代と言う。又所に名称というは末代の理」(補遺M34.1.19)

 しかしながら「末代の理」は、決して教会だけに特別に保障されているのではない。しかも、ここで「名称」と言われているのは教会のことではない。講や布教所として設立された時点が名称にほかならないからである。(中略)名称の理は、最初から教会として願い出たのではないことは、「教会名称録」の設立年月日をみれば一目瞭然である。
 たしかに「おさしづ」には「末代の理」という言葉は出ているが、その主語は「名称」「道」および国々所々に「下ろした理」とは言われていても、「教会名称」という言葉はどこにも使われていない。
 さらに個々の「伺い」で諭された「おさしづ」のお言葉が拡大解釈され、「末代の理」が一般化・制度化されることに強い疑問を感じるものである。
「末代の理」と言われているのは教会に限らない。一ようぼく・役員であろうと講社や布教所であろうと、信じる誠に変わりなければ、理は末代に続くという意味で諭されているのである。(後略ー以上『教祖ひながたと現代』84~86頁より)

 次回=教会は「一寸気休みだけに許してある」の予定です。


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今年(2016)8月4日に朝日新聞の取材を受けて記事と共に掲載された近影です。記事については8/15更新のブログを参照してください。今年84歳にしては若く見えるでしょう?

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